$$$dearname$$$ ![]() ![]() ![]() ![]() 【価格改定のご連絡】 原材料費の高騰に伴い、いくつかの商品が4月に値上がりいたします。ご検討中の方はぜひお早めにご注文くださいませ。 南部文秀堂 https://www.shokunin.com/jp/bunshudo/kyusu.html INDIGO CLASSIC https://www.shokunin.com/jp/indigo/ 木屋 https://www.shokunin.com/jp/kiya/onioroshi.html ニッコー https://www.shokunin.com/jp/nikko/ 大阪錫器 https://www.shokunin.com/jp/osaka/berg.html 大寺幸八郎商店 https://www.shokunin.com/jp/otera/eto.html 薗部産業 https://www.shokunin.com/jp/sonobe/wan.html ツルヤ商店 https://www.shokunin.com/jp/tsuruya/toubasket.html ![]() ![]() ![]() ![]() 【山一の三角おにぎり型大とさわら丸湯桶24が加わりました】 大人気商品の三角おにぎり型に、待望の大サイズが加わりました。さわら丸湯桶24は、これまで販売していた22cmより一つ大きなサイズですが、残念ながら製造元が廃業されたため、現仕様のものはメーカー在庫がなくなり次第販売終了となります。ぜひご検討くださいませ。 山一 三角おにぎり型 大 https://www.shokunin.com/jp/yamaichi/onigiri.html 山一 さわら丸湯桶 24 https://www.shokunin.com/jp/yamaichi/yuami.html ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【ヨシタ手工業デザイン室のレンゲフォーク・カップスプーン・スリムスプーンが加わりました】 レンゲフォーク レンゲスプーン特有の使いやすいフォルムをそのままに、フォークとして仕立てました。パスタなどの麺類はもちろん、具沢山で水分のあるお料理もスムーズに口に運ぶことができます。これまでのスプーンではすくいにくかった春雨などの具材も楽にすくえ、サーバーとしても大変重宝します。ご自宅での日常使いから野外でのキャンプまで、シーンを選ばず気楽に使える頼もしいフォークです。 カップスプーン スープを最後の一口まで心地よく飲めるよう、形にこだわって作りました。小ぶりなサイズ感は、お弁当と一緒に持ち歩くのにも便利です。キッチンではドレッシングやソースを混ぜ合わせる道具として使い、そのまま食卓へ出しても活躍してくれます。日々の食事に「ちょうどいい」使い心地を添えてくれるスプーンです。 スリムスプーン 全体を細長く設計し、先端はごろっとした具材もしっかりとすくえる形に仕上げました。口の狭い深めの容器から調味料を最後まで残さず取り出したり、パフェなどのデザートを楽しんだりするのにも嬉しいサイズ感です。機能性とスリムな美しさを同時に実感していただけます。 ヨシタ手工業デザイン室 カトラリー https://www.shokunin.com/jp/yoshita/cutlery.html ![]() ![]() ![]() ![]() 【小石原焼の小皿が加わりました】 小石原焼は、1682年に福岡藩3代藩主・黒田光之が伊万里から陶工を招いて窯場を開いたのが始まりです。飛び鉋や刷毛目などの技法は、のちに大分県日田市の小鹿田焼に伝わっており、小鹿田焼とは姉妹関係にあります。 生乾きの赤土に白の化粧土を掛けた器をろくろで回しながら、刃先で幾何学的な削ぎ紋様を付ける飛び鉋は、小石原焼を代表する伝統技法。独特の幾何学模様が、和洋を問わずどんな料理も引き立ててくれます。 小石原焼 小皿 https://www.shokunin.com/jp/koishiwara/ ![]() ![]() ![]() ![]() 【BENTO文化】 「長屋の花見」という落語をご存じですか?いつもにぎやかな貧乏長屋の住人たちが、酒は番茶を煮出して水で薄め、黄色いたくあんを卵焼きに見立てたり、かまぼこは大根のお漬物で花見を楽しむという面白おかしい話です。 昔から季節ごとに行楽を楽しむ日本人、そこには欠かせない「お弁当」がありました。両国の納涼祭りや花火大会、品川海岸への汐干狩り、上野の山に紅葉狩りなど、名所には船宿や料理茶屋も立ち並び、皆それぞれ食を楽しんだそうです。特にお金持ちの花見弁当は、とっくりと重箱を合わせた蒔絵造りのものに、はや竹の子のうま煮、カステラ玉子、鯛の早ずしやきんとんなどが詰められた豪華なお弁当だったそうです。 そして今では、通勤通学の日常のお弁当や、キャラ弁にロケ弁、駅弁などはもちろん、自宅においても冷凍の宅配弁当や栄養バランスを考えた介護用のお弁当なども活用されている方は多いのではないでしょうか。なぜか外食は飽きてしまうのに、なんの変哲もない自作のお弁当は飽きないなぁ~と思うことがよくあります。不思議ですね。海外でも人気の日本の「BENTO」は、その彩りの美しさや健康志向から注目されています。特に唐揚げや照り焼き、おにぎりが人気。海外からのお客様が多い銀座ショールームでも、山一の三角おにぎり型や栗久の曲げわっぱのお弁当箱を笑顔で手に取られています。 みんな大好き「お弁当」!そのお弁当の世界には日本人の文化とも言える“コンパクト志向”があるようです。そもそも“コンパクト”は日本のお家芸で、使わないときは重ねてしまえる重箱や入れ子の器、たたんでしまえる布団や着物もそうですし、中国から伝わったうちわをたためる形に改良して扇子にしたり、巨大な自然を縮小し家の中に取り込むように設計された庭園や盆栽もそうですね。2畳ほどの小さな空間で精神的な「わび・さび」を追求する茶道にも通じるものがあります。西欧の「拡がり文化」とは対照的に、物理的な縮小や効率化だけではなく、小ささの中に価値や美を生む文化が影響しているのです。 そして“食のコンパクト”がまさにお弁当です。携帯しやすく、食べやすい。日本の食の文化と美意識が凝縮されています。芝居見物の合間に食べられた「幕の内弁当」や懐石料理の流れを取り入れた「松花堂弁当」など、わくわくと覗き込んで食べるのがもったいないほどです。 大きな物やたくさんの物を持つよりも、小さい物や少ない物で暮らしていこうという志向を持つ人が増えてきている昨今。かつてウォークマンを作り“音楽”までも持ち歩いてしまった日本人。得意分野の“コンパクト=人間らしい知恵”を生かして次は何ができるのか楽しみです。まずは大きな愛情をコンパクトに詰めたお弁当を持って、お花見に出かけましょう! 栗久 曲げわっぱのお弁当箱(無塗装) https://www.shokunin.com/jp/kurikyu/mutosou.html 山一 三角おにぎり型 https://www.shokunin.com/jp/yamaichi/onigiri.html 松屋漆器店 白木塗重箱 https://www.shokunin.com/jp/matsuya/ 安比塗漆器工房 重箱 https://www.shokunin.com/jp/appi/jubako.html 銀座ショールーム https://www.shokunin.com/jp/showroom/ginza.html 参考資料 「和食 ~日本の自然、人々の知恵~」ガイドブック https://shun-gate.com/power/power_31/ https://note.com/fc0373/n/nc8768c53305e https://www.muji.net/img/lab/booklet/pdf/lab_booklet13.pdf ![]() 【銅のやかん】 日々のお茶作り、どうされていますか?一年を通して、たっぷりのお茶を作って冷蔵庫にストックしておく習慣がある人にとって、やかん選びは台所仕事の質に関わるちょっとしたポイントになるかもしれません。最近使い始めた東屋の「銅のやかん」は、お茶作りの良き相棒として欠かせない存在になりつつあります。今回はこのやかんの使い心地や、その魅力についてお話ししたいと思います。 これまで我が家で使っていたのは、よくある2L用の麦茶ポット。夏は麦茶に、それ以外のシーズンはルイボスティーにと大活躍なのですが、実は以前からお茶を作るのが少し億劫に感じることがありました。それは、手持ちの鉄瓶では2Lのお茶を一度に沸かすのが難しく、鍋やケトルを併用する「二度手間」がネックだったからです。そこで、この約2L入る東屋の「銅のやかん」を思い切って迎えてみることにしました。 が、このまばゆいばかりに輝くやかん。その佇まいがあまりにも美しく、使い始めるのにしばらく躊躇してしまいました。この真新しいピカピカを目にすることができるのは、今日が最初で最後。お客様でも「新品を使うときが一番緊張する」とおっしゃっているのをよく聞くのですが、本当にその気持ちが分かります。銅は使い込むことで経年変化し、落ち着いた深い色合いに育っていくのが醍醐味……と分かってはいても、この生まれたてのような美しさをずっと保っていたいという相反する気持ちに心地よく振り回され、出そうとしてはまたしまい込んでしまう始末でした。 そしてついに、銅のやかんがある暮らしがスタートしました。たっぷりのお茶が一度で作れる便利さといったらありません。銅の熱伝導率はアルミの2倍、鉄の5倍、ステンレスの20倍。比較的早くお湯が沸くため、忙しい時間帯でも実にスムーズです。実際に使い始めて気付いたのは、その圧倒的な効率の良さです。煮出したあとに常温まで冷ましたら、取っ手を倒してそのまま冷蔵庫へ。一般的に、金属製の容器でのお茶の長時間保存は推奨されていませんが、2人で1.5日ほどで飲み切る我が家では、冷蔵庫からのにおい移りややかんの金属臭も、今のところ気になりません。むしろ、キンキンに冷えたやかんをそのまま食卓へ出し、コップへ注ぐ瞬間のひんやりとした持ち手の質感にはいつも驚かされます。お茶をピッチャーに移し替える手間が一つ省け、家事の動線がスムーズになりました。パッキンなどの細かいパーツもなく、洗うのが簡単なのも嬉しい発見です。 火にかけ、冷蔵庫に入れ、食卓へ上げる。そんな日々を繰り返すうちに、やかんの表面には水滴の跡や火による焼き色が少しずつ刻まれていきます。使うたびに変化していく銅の様子を毎日目にできるのは、道具を育てる上での大きな楽しみ。私たちが経年変化を美しく感じるのは、そこに共に過ごした時間の重なりが見えるからかもしれません。銅が変化していく理由は、表面が酸素や水分に触れて酸化し、自然な被膜を作るため。ピカピカの金属が、しっとりとした飴色へと落ち着くころには、きっと長年寄り添ってきた相棒のような安心感が生まれるでしょう。忙しい毎日の家事を支えながら、世界に一つしかない「自分の道具」になっていく過程は、なんともいえない満足感があります。 おいしいお茶が常に冷蔵庫にある安心感と、道具を自分色に育てていく楽しみ。何十年とつながる未来を想像しながら、使い込むほどに愛着が増していくこの銅のやかんを、台所に迎え入れてみませんか?注ぎ口や本体は、手作業での溶接によって仕上げられた精巧な作り。職人の丁寧な手仕事から生まれた道具は、日々の暮らしをより豊かに、鮮やかに彩ってくれるはずです。 東屋 銅のやかん https://www.shokunin.com/jp/azmaya/yakan.html 青龍窯 汲み出し https://www.shokunin.com/jp/seiryu/kumidashi.html つちや織物所 鍋つかみ 中 https://www.shokunin.com/jp/tsuchiya/ ![]() ![]() ![]() 【辻和金網の落とし蓋】 煮物を作るとき、落とし蓋はお使いでしょうか?日本の台所ではおなじみの道具ですが、改めて考えてみると、なければないでそう困らないような気もする反面、そのひと手間があることで、料理がおいしくなる魔法をかけているような気もします。 落とし蓋の役割は、大根や里芋、かぼちゃなど、鍋の中で浮いてくる食材をやさしくしっかり落ち着かせること。そして鍋の中の煮汁を巡らせることです。しっかり煮汁に浸かることで均一に火が通り、煮汁が循環することで味がなじみます。日本の煮物は少ない煮汁を行き渡らせながら素材に味を含ませていくので、落とし蓋は控えめな存在のようで役割はとても大きいです。鍋の中で生まれる流れを妨げないよう鍋に沿った丸い形になっていたりと、煮物料理の理にかなった道具です。 昔からよく使われている木の落とし蓋は、軽くやわらかな当たりが特長です。現在では、金属製の落とし蓋も多く見られ、辻和金網の落とし蓋もその一つです。 辻和金網は、京都の金網の伝統を受け継ぐ専門店として、家庭や料理人の愛用する道具で長年親しまれている老舗です。ステンレスの細い針金で編まれた網目は、食材に面ではなく点で当たります。網目になっていることで、煮汁の対流を保ちながら食材だけをそっと押さえてくれます。ステンレス製のため簡単に洗うことができ、料理を変えて使ってもにおいが残らず、気兼ねなく使えて大変重宝します。そして、中央に小ぶりな持ち手があり、付属の棒で輪っか部分を引き上げられるのですが、どこかお祭りのヨーヨーすくいを思い出し、料理中にほんの少し楽しい気持ちになるはずです。 辻和金網の落とし蓋は、素朴な形が生み出す働きで、煮物の仕上がりをぐんと格上げしてくれます。使い続けるうちに、いつの間にか手に取っている、なくてはならない存在になることでしょう。 辻和金網 落とし蓋 中 https://www.shokunin.com/jp/tsujiwa/otoshibuta.html 中村銅器製作所 段付き鍋 https://www.shokunin.com/jp/nakamuradouki/seiro.html 小石原焼 トビカンナ 5寸皿 https://www.shokunin.com/jp/koishiwara/ ![]() ![]() 【水で拭く、日本の暮らし】 台所や部屋を整える普段の掃除の中でも、私は拭き掃除が好きで、日々のルーティンにしています。花粉が気になる季節には、室内の花粉を取り除く効果もありますし、何よりテーブルや床をさっと水拭きすると、空気まで澄んだように感じられ、とても清々しい気持ちになります。 「水」で「拭く」掃除の習慣は、日本では古くから大切にされてきました。寺院では、僧侶が長い廊下を中腰で磨き上げる姿が知られていますが、その動作には修行の一環として自分の心を整える意味も込められているそうです。また、日本の学校では日頃から子どもたちが雑巾掛けを行います。学校に手縫いの雑巾を持参し、教室や廊下を拭き上げる光景は、多くの人にとって懐かしい記憶ではないでしょうか。当時は気づきませんでしたが、その掃除の時間は、身の回りのものを大切にする心を育てる時間でもあったように思います。 こうした光景は日本ではごく自然なものですが、土足文化の欧米では掃除機やモップを使った掃除が主流で、床に触れるように「拭く」掃除方法は世界的に見ると少し特徴的ともいわれています。その背景には、日本が降水量の多い国で、山や川に恵まれた環境において水が身近な存在だったこと、そして神社の手水や禊(みそぎ)のように、水を「清め」のものとして捉える精神性があると考えられます。そうした価値観が日々の暮らしに自然と取り入れられ、身の回りを水で拭き清める習慣として残っているのかもしれません。 日本はきれい好きの国としてよく知られていますが、身の回りを自分にとって心地よい空間に整えようとする考え方が特別なことではなく、静かに長く受け継がれてきたように感じます。 そんな日々の暮らしにそっと寄り添ってくれるのが、岡井麻布商店の麻ふきんです。麻は古くから親しまれてきた天然素材で、吸水性が高く、乾きが早いのが特徴です。水分をしっかり吸い取りながらも乾きやすいため、清潔に使い続けることができます。使い始めは、食器を拭いたり、洗った野菜の水気を拭き取ったりする用途におすすめです。最初は硬さがありますが、使い込むうちに徐々に柔らかくなり、手になじんできます。 私も毎日の食器拭きとして使い始めてみたところ、まずその吸水力に驚きました。50cm四方の大きさも使いやすく、折りたたんで拭く面を変えながら使えば、たくさんの食器も一度に拭き終えることができます。これまで使っていた小さな食器拭きでは、繊維や水滴残りが気になることもありましたが、そのストレスがなくなりました。 使い続けたあとは、テーブル拭きとして、さらに最後は雑巾として床や棚の拭き掃除へと役目を変えながら長く使っていく予定です。一枚の布を大切に使い続けることは、日本の暮らしで自然と行われてきた生活の知恵でもあります。麻ふきんが暮らしを整える相棒として変化していく様子も、これからの楽しみです。 岡井麻布商店 麻ふきん https://www.shokunin.com/jp/okai/fukin.html 小樽ショールーム https://www.shokunin.com/jp/showroom/otaru.html 参考資料 https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no58/03.html ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【柳宗理】 民藝運動の父・柳宗悦の長男であり、日本を代表するインダストリアル・デザイナー、柳宗理。商業主義に偏ったものや流行に左右されるものでなく、製品における機能や素材等の諸要素を踏まえた上で、質の高いデザインを多く生み出すことに尽力しました。 幼いころから絵を描くことが好きだった柳は、まだまだ外国から入ってくる情報の乏しかった日本にヨーロッパの新しい芸術である「前衛芸術」を紹介した瀧口修造の影響で前衛芸術を知り、その新しさに夢中になりました。前衛芸術には、未来派、ダダイズム、シュルレアリスムへと至る運動を中心に、ピカソが創始したキュビスムやカンディンスキーらによる抽象主義など、世界的に興ったさまざまな運動が含まれます。父のやっていることは古臭いと反発し、前衛芸術に心酔していた柳は東京美術学校(現・東京藝術大学)の西洋画科に入学し、芸術の道に進みます。 柳は在学中、日本人で初めてドイツのバウハウスに留学し帰国したばかりであった水谷武彦の講義を聞いて、バウハウスの思想に感化されます。「絵描きはアトリエにこもり自分の好きなことをしているけれど、もっと社会に出て社会のために尽くさなくては」と、関心はデザイン・建築の分野へ大きく転換。そこでル・コルビュジエを知った柳は、その新しい芸術思想と幅広い活動に強い憧れを抱き、のちにル・コルビュジエの弟子である坂倉準三建築研究所で働くことにつながります。 東京美術学校を卒業後、当時日本の中央官庁であった商工省の下部機関・日本輸出工芸連合会で、柳はデザイナーとして働き始めました。商工省が輸出工芸品の振興と指導のためにフランスのデザイナーであるシャルロット・ペリアンを招聘した際には、ペリアンの日本視察に同行し、日本各地の伝統工芸に触れました。第二次世界大戦中には、坂倉準三建築研究所の所属のまま、陸軍報道部宣伝班員としてフィリピンへ渡りました。 戦後まもなくデザインに着手し、物資も不足する中で完成したのが無地の「硬質陶器シリーズ」でしたが、模様付きの陶器が一般的だった当時の国内市場ではなかなか理解されませんでした。それらは質の悪さを色や模様で誤魔化したものも多く、日常生活に適する美しさを持った質の高い製品をつくることがデザイナーの仕事だと考えた柳は、無地の陶器でその姿勢を表しました。 1950年に「柳インダストリアルデザイン研究所」を開設し、そのころからコンペティションで数々の賞を受賞、その賞金をもとに1953年「財団法人柳工業デザイン研究会」へと組織を改めました。父・宗悦に反発し民藝から離れていた柳ですが、1950年代後半から河井寛次郎の窯で黒土瓶を制作、日本民藝協会主催展覧会の作品選定に関わるなど民藝との関わりが強まっていき、1977年には日本民藝館館長に就任します。 柳は自らデザインするだけでなく、国内外の大学や専門学校で教鞭を執り、デザインの将来を担う若者たちへの教育者としても活動しました。1957年には、第11回ミラノ・トリエンナーレに招待出品し、「バタフライスツール」および「白磁土瓶」が金賞を受賞。その後、デザイナーとして国際的に活動し、夏季東京オリンピックや冬季札幌オリンピックのデザインに携わり、公共物のデザインも多く手がけるようになります。柳は、公共構造物も人が使う道具であるという視点で捉え、美しさと機能性を兼ね備えたものを造ることによって、都市空間の質の上昇を目指しました。 1980年代、柳は北欧や南アジアを中心にさまざまな国を訪れ、世界各国の民藝を蒐集し雑誌『民藝』で紹介。初めての作品集『デザイン 柳宗理の作品と考え』を出版し、デザインに対する考え方を「デザイン考」として執筆します。1990年代以降、柳は現在も多くの人に使い続けられているたくさんのキッチンウェアを世に送り出しました。使い手の視点に立ちながら、生産を担う技術者の意見にも耳を傾けることで、使い勝手が良く、飽きのこない形を実現した柳宗理のデザインは、この先も普遍的な新しさとして、人々に愛され続けていくでしょう。 ニッコー 柳宗理ボーンチャイナ ※硬質陶器シリーズを復刻 https://www.shokunin.com/jp/nikko/ 柳宗理 ステンレスボール https://www.shokunin.com/jp/yanagisori/bowl.html 廣田硝子 柳宗理ワイングラス https://www.shokunin.com/jp/hirota/wine.html セラミック・ジャパン 白黒ボウル https://www.shokunin.com/jp/ceramicjapan/shirokuro.html ヨシタ手工業デザイン室 カトラリー ※長年柳宗理に師事 https://www.shokunin.com/jp/yoshita/cutlery.html 柳宗理記念デザイン研究所 https://www.kanazawa-bidai.ac.jp/yanagi/ 参考資料 https://yanagi-design.or.jp/ydo_sori/ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%AE%97%E7%90%86 ![]() ![]() ![]() ![]() 【大寺幸八郎商店のミニ干支シリーズ】 工芸の「用の美」という考えが示すとおり、日々の暮らしの中で使われる道具にこそ美が宿るという思想があります。ショールームで商品を一つ一つ手に取りながら、これはどんなふうに使えるだろう、どんな場面に似合うだろうかと想像を膨らませ、使い続けることでどのように美しさが磨かれていくかということをお客様とお話しすることが多いように思います。 たとえば器は、料理を盛ることで見えていなかった余白の美しさが引き出されたり、料理の道具であれば、使い込まれる中で表情が変わっていく過程にも価値が生み出されます。使い続けていく積み重ねが、「育てる」という感覚にもなり、その物の完成形へと近づいていくような気がします。 しかし、すべての工芸がそうではありません。大寺幸八郎商店のミニ干支シリーズの動物たちは、ただ空間に置かれることで、味わい深く経年変化しなじんでいきます。ショールームのアイドル的存在で、どのお客様の目も惹きつけ、気付けば会話の中心に。小さくてかわいらしい姿が私たちの心をしっかりと掴んでいます。 工芸には、器や道具など、日々使うことで育っていくものと、そこに在ることで意味を感じさせてくれ、生活の中でふと視線を送りたくなるものがあります。暮らしの美しさや奥行きは、その両方から感じ取れるのかもしれません。 ミニ干支シリーズの動物たちは、400年の歴史を持つ高岡市で培われてきた鋳物の技術と、どこかほのぼのとした雰囲気のやわらかな造形が重なり、小さな形の中に確かな存在感が宿っています。受け継がれてきた技術と佇まいを、ぜひ手のひらに乗せて感じてみてください。 大寺幸八郎商店 ミニ干支シリーズ https://www.shokunin.com/jp/otera/eto.html 若松ショールーム https://www.shokunin.com/jp/showroom/wakamatsu.html ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【鱈の話】 見えない形でなじみのある魚「鱈(タラ)」。実際に鱈を食べていると意識している人は、どれほどいるでしょうか。ちくわ・はんぺん・かまぼこといった水産加工品、棒だら、白身魚フライ、たらこや白子など。これらの多くが、鱈を原料としながら、名前を前面に出さない形で、私たちの食生活の中で幅広く使われています。国内漁獲量は北海道が大きな割合を占め、冷たい北の海で育つ鱈は、冬の食卓に欠かせない存在です。一般的に鱈といえば、ヒゲのある真鱈(マダラ)を指します。鍋料理の鱈ちり、煮付け、塩焼きなどに使われ、平安時代の記録にも登場し、江戸時代には冬のごちそうでした。 一方、ヒゲのないスケトウダラは、北海道・東北で多く漁獲され、明治以降は練り物や保存食の原料として広く利用されるようになりました。昭和に入ってからは福岡で辛子明太子が名物化し、全国へ普及していきます。フィッシュバーガーなどの材料としても利用され、胃袋は韓国の塩辛「チャンジャ」の材料としても知られています。 日本の食卓に欠かせない鱈ですが、中世ヨーロッパでも重要な魚でした。北大西洋に生息するタイセイヨウダラは、当時「海の牛」と呼ばれ、牛肉に匹敵するほど重要なタンパク源として、大量に漁獲されていたといわれています。鱈漁業とその交易は、北ヨーロッパの経済成長を支える重要な産業であり、宗教・食文化・経済のすべてに深く関わっていました。カトリック世界では、断食と禁欲の規定により、四旬節や金曜日など年間100日以上にわたり肉食を控える習慣がありました。これは、イエス・キリストの受難や断食を記念する宗教的伝統に基づくものです。その期間には、肉や乳製品、卵などが制限される一方で、魚は例外として食べることが許されていました。この習慣は、現在でも一部の地域や信徒の間に残っています。魚が許容されたことは、ヨーロッパにおける魚食文化の発展を促し、漁業や保存技術の発達にもつながりました。特に長期保存が可能な干し魚や塩蔵魚は重要な食料となりました。 では、なぜ数ある魚の中で鱈が重要になったのでしょうか。鱈は北大西洋に広く分布し、大量に獲れる魚でした。また脂肪が少ない白身魚のため、塩漬けや乾燥による保存にも適していました。寒冷で乾燥した北ヨーロッパの気候も乾燥保存に適しており、長期保存できる食料として広く流通するようになります。10~12世紀ごろには塩の大量生産が進み、「バカラオ」と呼ばれる保存用の鱈の製造が広がります。鱈を開いて内臓を取り、塩漬けにすることで長期保存と長距離輸送が可能になりました。13世紀以降、北ドイツを中心とする商人や都市の交易ネットワークであるハンザ同盟の商人たちは、バルト海や北海を経由してヨーロッパ諸国へ輸出し、断食日の需要に支えられて市場は拡大しました。さらに大航海時代には、ポルトガルやスペインの船の糧食として世界各地へと広まり、北米ニューイングランドでも鱈産業が発展しました。このように保存が可能になった鱈は、中世ヨーロッパの食糧供給を支える重要な存在となります。各地の都市市場では、断食日の需要に応える魚として広く取引されたのです。 富山県のヒスイの原石が打ち上がるヒスイ海岸沿いの国道8号周辺には、「たら汁」を提供する店が立ち並ぶ「たら汁街道」があります。昭和30~40年代、大漁の鱈が漁村を支えていた時代、漁師が昼ごろに漁から戻ると、浜辺で流木を集めて大鍋を沸かし、獲れたての鱈をさばいて味噌を入れたたら汁を作り、家族や漁に関わった人々で囲んで食べていたと伝えられています。富山県朝日町に根づいたこの風景から生まれたたら汁は、この地ならではの食文化として現在も受け継がれています。海も人の暮らしも、長い時間の中で少しずつ姿を変えていきます。それでも、私たちの食卓に寄り添い続けてきた鱈という魚の歴史を思うとき、海の恵みへの感謝を忘れずにいたいものです。 たら鍋(記事) https://jp.shokunin.com/archives/52024749.html メウンタン(記事) https://jp.shokunin.com/archives/52021608.html 参考資料 https://ja.wikipedia.org/wiki/タラ https://www.olive-hitomawashi.com/column/2018/12/post-3476.html https://www.taberare.com/article/blog/post-14009 https://www.mentaiko-ftc.org/mentaiko-story/ https://www.shiotokurashi.com/world/europe/43792 https://tenki.jp/suppl/okuyuki/2017/03/11/20561.html https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/180604 https://www.maff.go.jp/ ![]() ![]() ![]() 【「チャ」と「テー」】 「お茶」を表す言葉が、世界中に「チャ」と「テー」の二系統あることをご存じでしょうか?この呼び名の違いには、かつてお茶が中国からどのように運ばれたかという、壮大な交易の歴史が隠されています。 お茶の文化は中国で生まれましたが、その伝わり方には「陸の道」と「海の道」がありました。 まず、シルクロードなどの陸路を通じて伝わったのが「チャ」です。中国の北方ではお茶を「チャ(chá)」と発音しており、これが中央アジアやトルコ、ロシア、そして日本へと広がりました。インドをはじめ多くの国で「チャイ」と呼ばれているのは、この陸路のルートに起源があるのです。 一方で、海路を通じて伝わったのが「テー」です。17世紀ごろ、オランダの東インド会社が福建省の厦門(アモイ)周辺からお茶を買い付け、ヨーロッパへ持ち帰りました。現地の閩南語ではお茶を「テー(tê)」と発音していたため、西洋諸国ではその音が定着し、英語の「ティー」やフランス語の「テ」になったといわれています。 興味深いのは、同じ欧州でもポルトガルだけは今も「シャ(chá)」と呼ぶ点です。これは彼らがオランダに先んじて、広東語圏のマカオを拠点に貿易を行っていたため、当時の広東での発音「チャ」がそのまま持ち込まれたという経緯があります。 これらを紐解いていくと、今私たちが何気なく呼んでいる言葉の中に、かつての商人たちが海を越え、大陸を渡った足跡が感じられ、一杯のお茶がより味わい深く感じられます。 日本でも古くから親しまれてきたお茶。当店の道具を使って、その物語に思いを馳せながら、ゆったりとしたティータイムを過ごしてみてはいかがでしょうか。 我戸幹男商店 Karmi Tea Canisters https://www.shokunin.com/jp/gato/karmi.html ニッコー 柳宗理ボーンチャイナ https://www.shokunin.com/jp/nikko/ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【宇治のはじまりとこれから】 宇治はもともと、平安時代に栄華を極めた藤原氏の別荘地でした。華麗な王朝文化が花開き、極楽浄土をこの世に具現しようとして建てられた平等院鳳凰堂は、世界文化遺産として今も美しい姿を水面に映しています。 5世紀前半、大和政権が基礎を固めつつあったころ、この地には「宇治上神社」や「宇治神社」のご祭神である菟道稚郎子の離宮があったと伝えられています。古事記、日本書紀にも、応神天皇の皇子であった菟道稚郎子が、兄でのちに仁徳天皇となる大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に皇位を譲るため、宇治で自ら命を絶ったとされる物語があります。7世紀中ごろに宇治橋が架けられ、奈良・京都・滋賀を結ぶ水陸交通の要衝としての重要度が増すと、宇治橋を挟んで政権を左右する数多くの攻防が繰り広げられました。 平安時代、宇治は都からも程近く、牛車で通える表情豊かな山紫水明を楽しめる場所として愛され、貴族たちが別荘を建設します。藤原道長が「宇治殿」として所有していたといわれる場所には、極楽浄土を表現した阿弥陀堂(鳳凰堂)で知られる「平等院」が道長の息子・頼通によって建てられました。また、平等院建立と同時期に、現存する日本最古の神社建築である宇治上神社の本殿が建てられたともいわれています。万葉集や古今和歌集には、六歌仙の一人である喜撰法師をはじめ、宇治にちなんだ和歌が多く詠まれ、宇治は『源氏物語』の第三部「宇治十帖」のおもな舞台にもなったことでも知られています。 貴族社会から武家社会への移行期には、以仁王(もちひとおう)や源頼政が宇治川を挟んで平氏と戦った「宇治橋合戦」や源頼朝の命を受けた源義経らが木曽義仲と戦った「宇治川の先陣争い」など、いわゆる源平合戦が繰り広げられました。宇治のランドマークのひとつとなっている宇治橋上流の中洲にそびえる十三重石塔は、宇治橋の再架橋と宇治川殺生禁断の象徴として、鎌倉時代に西大寺の僧・叡尊によって建立されたもので、洪水による流失と再建を繰り返しながら現在に受け継がれています。 室町時代になると、鎌倉時代に栂尾高山寺の明恵により宇治に伝わった茶の栽培が本格化し、将軍や諸大名の保護を受け、宇治茶の名声は徐々に高まります。室町時代の終わりごろには、「応仁の乱」や「山城の国一揆」、「槙島城の戦い」などの戦の舞台にもなりました。その後、豊臣秀吉が宇治橋南側に広がっていた巨椋池(おぐらいけ)に太閤堤を築き、その上に新たな街道を整備したことにより、宇治の持つ交通の要衝という役割は変化していきます。江戸時代には現在の「宇治橋通り」に幕府から特権を与えられた御茶師の屋敷が立ち並び、毎年初夏には御茶壺が江戸と宇治を往来しました。今も中宇治地域には、当時を思わせる街並みが残されています。 さらに宇治に建立された「黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)」の僧・隠元によって茶葉を急須で煎じて飲む文化が伝えられ、現在に続くお茶を緑色に仕上げる「宇治製法」が永谷宗円により確立すると、江戸に持ち帰った商人たちによって宇治茶は一大ブームとなりました。幕藩体制の崩壊とともに宇治の茶業も大きく変化しましたが、宇治茶は海外への輸出品ともなり、国内の品評会などでも高評価を得続け、高級茶として珍重されて今に至っています。 明治中期には、鉄道が通ったことにより宇治への来訪者も一気に増加し、大正時代に当時国内最大級の発電力を誇っていた宇治発電所が稼働すると宇治にも電気が普及し、同時期に宇治川ラインなどが新たな観光スポットとして登場します。一方で、昭和に入ると、漁場や水辺の景勝地としての巨椋池は国の干拓事業によって農地化され、人々の暮らしや景観が大きく変化しました。そして今日、宇治は、宇治川を中心とした美しい景観、世界遺産や国宝など数々の文化財、日本文化を代表するお茶が楽しめるまち、そして紫式部ゆかりのまちとして、国内外から多くの人々が訪れています。 藤原頼通によって建てられた平等院と宇治上神社は、宇治川を挟んで向かい合い、西岸の平等院があの世(彼岸)、東岸の宇治上神社がこの世(此岸)を象徴しています。宇治川に架かる朝霧橋を渡ると、木々の間から平等院の鳳凰をちらりと見ることができるスポットがあります。さまざまな歴史を見守ってきた風光明媚な宇治の風景は、この先も宇治川の流れのように受け継がれていくことでしょう。 ショールームのご案内 https://www.shokunin.com/jp/showroom/ 参考資料 https://travel.ujicci.or.jp/app/public/history https://www.city.uji.kyoto.jp/murasakisp/ |
編集後記 こんばんは。職人.com運営者の櫻井です。 今月何をしたかと思い返したところ、やはり4月からの値上がり商品が多いので、そのアナウンスに追われたということでしょうか。そんな中、スタッフがすばらしい記事をいくつも送ってくれ、また、毎年行う棚卸しも手慣れたスタッフがほとんどで、とても嬉しく思いました。 職人.comは、逃げるように会社を辞めた私が、その半年後に一人で立ち上げた店です。自分で自分の仕事を作ったというのが正直なところ。いつの間にか20年以上が経ち、日本各地で勤務するスタッフや100社以上の取引先と共に、店づくりができるようになりました。 そんな充実した日々を送らせていただけるのは、日々ご利用してくださるお客様のおかげです。改めて心より感謝申し上げます。 本日をもって当社の2025年度が終わります。明日から2026年度がスタート。来年度もどうぞよろしくお願いいたします。 こちらのメールマガジンは、商品お買い上げの際などにご登録いただいた方に定期的にお送りしております。 配信解除はこちらをワンクリックしていただきますようお願いいたします。メールマガジンのアドレス変更・再登録はこちらから。 職人.com株式会社 〒602-8423 京都府京都市上京区藤木町795-2 075-415-0023 https://www.shokunin.com/ |
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